quote.

Dec 18

自分は立川談志という噺家が長く鼻について仕方がなかった 今でも打ち解けられないところがあります
大向こうを狙った「痛烈な毒舌」に 「落語は人間の業の肯定」といった理論に 未来の落語を背負って立つのは天才の己しかいない、との大言壮語に 噺家の前にタレント文化人を見てしまう

もちろん批評家として、芸の目利きとして、彼がずば抜けた才を持っているのは著書や「ゆめの寄席」で充分承知
しかし天才や名人とは大きく出過ぎだろう 談志は旦那やお嬢様、上つ方の育ちのよさが演じきれない 強調がニュアンスを殺している 客を掴もうと勇むあまり、行き過ぎて圧倒してしまっている 我々は高座を下から拝聴する格好に 

彼の「芝浜」はそんな俺が聴いても凄い 大した噺家には違いない それだけならどうということはないのですが、古今亭志ん朝が亡くなったおりの、
「俺が志ん生なら彼(古今亭志ん朝)は文楽だね」との発言には血圧が上がった

このひと、古今亭志ん朝って誰だか知ってるんだろうか どれだけの仕事をしたひとか、わかってて言ってんのかな 
 
小林信彦「名人 志ん生、そして志ん朝」をひかせてもらえれば
「志ん朝さんには生涯ライバルがいなかった」「ライバルを自ら任じている人はいたようだが」
あれだけ落語を愛している人が、自分のことだけはわからない 志ん生と文楽は昭和を代表する名人であり、自他共に好敵手とみなされた二人 嫉妬が言わせた何気ないヒトコトでしょうが、違和感は拭えない 

しかし省みるに談志なら、古今亭志ん朝でしかありえない、あの、語られる側の幸福感について上手く言えるんじゃないかと、コレは今でも思っています


自分が落語にとりつかれたのは図書館で古今亭志ん朝の人情噺「文七元結」CDを聞いてから
筋立てそのものは100年前の御伽噺みたいなもんですよ たけしやダウンタウンとは全く違う 
「笑える」とかそういうもんじゃない その口調が描写がボケっぷりが聴いててとにかく嬉しいんだよね 幸福なのよホント、おかしな宗教じゃないけれど 何度聴いても同じところで涙が出る溜息が出る「莫迦だなぁ」と声が出る ぼくは初めて幸福を知った 古今亭志ん朝という男に恋をした このひとの音源全部欲しい

JANISに通って残らずダビング 通販でボックスを購入し、のちにWinnyというツールを知って、そこで未ソフト化映像を何十本とダウンロードした 志ん朝の未発表映像はまだ国立劇場にたくさん残されていて、数百円で見ることができる(要電話予約) 猛暑の視聴覚ブースにテレコをこっそり持ち込んで、上半身裸に汗びっしょり CD成っていない高座を息を殺して録音した 21世紀の話だよ 俺も昔の小学生かよ 志ん朝の口調を何度も反芻し、友人たちにCD-Rを渡して「とにかく」を連発した とにかく聴いて欲しいんだ これは凄い芸だから

自分は芸事がないと生きられない 観てない映画や未読の本、まだ封を切ってないCD、何か面白いことないか面白いことはないかといつも探している 正直に言えば自分の人生は本当に孤独で退屈だ 世間の人たちも五十歩百歩だろう、我慢してるんだろう、鈍いから平気なんだろう、と密かに思っている 大学教授が研究生に「研究というのはつまらないものです」と言うのを聞いた「仕事なんて、そもそもつまんないもんだろ」「つまらないから勉強なの」

恋に落ちた人間が「恋愛なんてつまらない」なんて言うだろうか 
自分は恋人を探していた そのことに、みつかるまでは気が付かなかった

自分が追いはじめてすぐに古今亭志ん朝は糖尿病をこじらせて死んだ 「談笑中、ウォッカをどぼどぼ注がれたグラスが目の前で次々干されていく」「コワかった」とは評論家の話
小さん、圓生、柳橋、三木助、文楽、そして実の父である志ん生
素晴らしい芸の例に漏れず、志ん朝の録音には沢山の先人達、偉大な噺家達の霊が降りてきてそっと息している

暑苦しい文お許しを 愛や幸福について語るといつも、目がとんがらがって唾を飛ばすのは、何でなんだろうかなぁボクは

同じ枕、同じスジ、同じ落ちを暗誦するほど聞いてなお、落語に厭きないのは何故だろう、と
その幸福について、インターネットで誰かがこう話していた
「眠る前にお祖父ちゃんの昔話を聴いてる感じなんだよね 眠いんだけどまだ眠りたくない、みたいな」

” — 「好きになった」メモ

Nov 09

大江健三郎v.s.伊集院光1
日曜の午後、マンションの排水管の点検のため、自宅で過ごす。この時間帯には外に出ていることが多いので、手持ちぶたさんとどうつきあったらいいか、よくわからない。しかたなくラジオのスイッチをひねる。

TBSラジオの伊集院光の番組が流れている。ゲストを迎えてのクイズ・コーナーだ。ゲストが何十年も前に受けた雑誌や新聞のインタビュー記事をもとに、その時の答を覚えているかどうかを試すという、まあ、たわいのないおちゃらけコーナーである。

私はベランダの「ひめうつぎ」や「るりまつり」の枯れ枝をはさみでぱちんぱちんと切りながら、それを聞くともなく聞いている。

コーナーが始まる。女性アナウンサーがゲストを紹介する。「本日のゲストは大江健三郎さんです」。

うん?大江健三郎?「伊集院光の日曜日の秘密基地」のゲストが大江健三郎?はて、面妖な。

思わずはさみを置いて、リビングに戻り、ラジオのボリュームを上げる。

大江の声が聞こえてくる。

こういう場合、司会者が恐縮、恐懼して、ひたすら礼賛のことばを発するというケースが多い。なにしろ相手はノーベル文学賞受賞者である。そうなったら切っちゃおう。なんだかいたたまれないしな。

私は伊集院光の話をラジオで聞くのは嫌いではない。この人はたしかにおちゃらけタレントだが、そのおちゃらけを真剣にやっている気配がある。そこにいくばくかの好感をもつ。おちゃらけをおちゃらけでやられてはかなわない。もしもバスター・キートンがニコニコ顔だったら、ずいぶんと面白さが減じるだろう。そういうことである。

しかし、予想はいい意味で裏切られる。テーマはいきなり「文体」だ。

「ぼくは、とにかく書き直しをよくします。何度も何度も繰り返し、繰り返し書き直します。私の妻は私の仕事にはおおむね好意的で、批評めいたことはまず口にしないのですが、以前、こういったことがあります。『もしもあなたが最初に書いた、そのまんまの形で世間に発表する機会が一度でもあったらどんなにいいでしょうね』と。」

伊集院は質問する。

「先生のおっしゃる文体は、こういう文体というものがまずあって、それに近づけて書き直しをされるわけですか、それともそういうものはなくて、まず書いてそれを修正する中で結果的に文体ができあがっていくんですか」

この質問を聞いただけで彼がどういう姿勢でこの話に臨んでいるかがわかる。彼はひるんでいない。本気である。おべんちゃらや追従を捨てて、正面から大作家に向き合おうとしている。まことによい度胸である。私は倚子に腰を下ろす。

「それは後の方ですね。最初から文体というものはないんです。僕の知っている作家に三島由紀夫という人がいて、彼は最初から何を書くかがほとんど決まってたんですね。実際に書く時に、彼はそのイメージに装飾をほどこすようにして作品を完成させていった。でもぼくはとにかく最初はこういうものを表現したいという漠然としたイメージのようなものはあるんだけれども、それが何なのかはよくわからない。だからとりあえず書いてみる。でも読み直すとぜんぜん書けてないし、だいいち、読者はなにが書いてあるかわからないだろう。だから、ああでもないこうでもないと表現を変え、視点を変えて、延々と書き直すことになるわけです。その作業を繰り返して、最終的にやっとなんとか読めるものになり、その過程で自分なりの文体というものができあがっていくんです。」
「最終的に読者に伝わる文体ができると」
「でも実は、私の文章は読み手にあんまりよく伝わらないみたいで、難解とか、むずかしいとか、よくいわれるし、本としてもあまり売れないんですよ」(笑)

まことにいい雰囲気で話が続いていく。しかし、大江氏、いかんせんラジオには慣れていない。CMやコーナーお決まりのクイズをすべて無視して、延々としゃべる。司会者はとうぜんそれがわかっているのだが、大江氏の話を途中で遮らない。30分近く、そのままノンストップのNHK第一放送状態で話が進んでいく。まことにみごとな司会者ぶりといわねばならない。

そして、その後、大江氏はなんと伊集院光について、語り始める。

「私はあなたは少年のころの思い出を、単なる記憶としてではなく、あるひとつの広がりをもった出来事として大事にする人であるように思います。その記憶をいろんな角度から立体的に語ることのできる人であるように思うんです。人間にはふたつのタイプがあって、一つは自分の個人的な思い出をただそれだけのものとして平板に語る人、もう一つはあなたのように様々な角度から立体的な出来事として語ることのできる人」

このことばを聞いた伊集院氏の心境はいかばかりのものだったろうか。

大江氏の話はさらに続く。

「ぼくはね、昔の出来事を物語る時、たとえば、その時、私は左を見た、と書く時、はたしてその時、右手には何があったんだろう。自分の見ていなかったところに何があったんだろう。あるいは、その私を後ろから誰かが見ていただろうか。そういうふうに考えるんです。そして、それを書こうとする人間なんです」

伊集院氏。

「先生、僕は基本的にラジオは生しか出ないんです。録音だと取り直しができます。そうやって何度も何度もある話を取り直していると、ある時、ディレクターから『伊集院君、君の話、最初は面白いと思ったんだけど、なんか何度も話しているうちに、怖い話になってきてるよ』といわれたんです。気がつくと、もう別の話になってるんですよね。それも怖い話に。先生はそんなことはないですか」

「それでぼくの小説はいつも『怖い、怖い』っていわれるのかなあ」(笑)

伊集院氏。

「ぼくは先生の「自分の木の下で」を読んで、読み終わってから、何度もおんなじ話をするじじいがいるじゃないですか、そういうじじいが大好きになりました」

「ほう」

「そういうじいさんって、同じ話をしながら、微妙に今日はここをカットしようとか、ここをふくらまそうとかしてるんですよね。それを何度も何度も聞いているうちに、その話があっちこっちにふくらみだして、それが単なる話じゃなくて、なんだか実際にそれを経験したような気になるんです。つまりじいさんの経験を自分も同じように経験している気持ちになる。それで『このじいさんの話って、結局、タイムマシーンなんじゃないか。タイムマシーンって実は発明されてたんじゃねーか』って思うんです」

「うん、うん」

この調子で話が展開する。

やがて、話は大江の友人、伊丹十三の話になる。この話は延々と続く。10分以上、彼は訥々と語り始める。

「伊丹は私の古い友人で、彼の妹は今の私の妻です。伊丹はある頃から映画を作り始めます。でもぼくはめったにその感想を述べたりはしません。妹には試写会の招待状がくるけど、ぼくには来ない(笑)。ぼくもあまり積極的に感想を言おうとは思わなかった。
 でも、彼がテロリズムに関する映画を撮っているという話を聞いた。私は彼のテロリズムに対する姿勢に敬服していたので、これは見なければならない。そう思って、封切りの映画館へお金を払って見に行って、その夜、彼の事務所に電話をかけました。すると伊丹が自分で出たんです」
「そうですか」
「彼はどうだった、あの映画のどこが面白かったかと聞く。私は知っているのですが、彼は漠然とした抽象的な感想を許さないところがある。『あの映画はポストモダン的でよかった』なんて、そういう言い方は絶対に許しません。ぼくはそれをよく知っている。とにかくあの場面がこういうふうに面白かった。そう具体的に述べないと納得しない。私は心を決めて、あるシーンについて語り始めたのです」
「はあ」
「それは一人の小太りの警官が登場するシーンです。その彼のところに出前持ちが昼飯の注文を取りにくる。彼はなかなかペーソスに富むというか、ふてぶてしいような、とぼけたような、意地悪なような、人がいいような、そういう感じでその出前持ちをからかう。そこがとても面白いと思った。
 その小太りの警官はどうもあまり仕事ができるというタイプではないようで、昼休みに本を読んでいたりする。上司が何を読んでいるんだと聞くと、サリンジャーだったりする。そして上司から警官というのはもっと現実に向き合うべきものだと説教をされる。
 そんなある日、その小太りの警官は田んぼの真ん中にあるカラオケ・ルームに歌を唄いにいく。女の店員が「お客さん、仕事はなに」と聞く。すると、彼はふてぶてしいというか、なんというか、「学生」と答えたりするんです。
 そして、偶然、隣の部屋にいる客が、自分が追っているテロの犯人であることがわかる。彼はいったんトイレにいって、落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かす。
 そして、犯人の部屋に入って、口にカラオケのマイクを突っ込んで逮捕しようとする。犯人はドアから逃げる。彼は追う。店の通路の突き当たりに「通用口」という表示があって、二人ともそこに体当たりをする。ドアがこわれる。その向こうは田んぼだ。二人は田んぼに落ちて、格闘になる。
 その小太りの警官は、日頃の言動には似合わず、なかなかよく闘うんです。そして最終的には見事に犯人を逮捕する。
 まあ、ここまでは普通の監督さんでもそれなりに撮るのではないかと思うんです。私が印象に残ったのはその後のシーンです。
 泥だらけになった犯人の背中を小太りの警官がホースで洗ってやる。これもまあわかるんです。でもしばらくすると、カメラが引いて、その警官の背中を店の女の子がホースで洗っているシーンが映し出される。
 ぼくはこのシーンがすばらしい、いかにも伊丹らしくて面白かった。そう言いました。」
「……」
「すると、伊丹が妙なことを言うんです。そうか、それでね、健ちゃん、あの女の子の役名なんだけど、「みどり」ちゃんっていうんだよ。で、役者さんの名前は早乙女○○さんっていうんだ。健ちゃん、覚えた?」
「私はこう言いました。あのさ、岳(たけ)ちゃん(伊丹の本名)、ぼくは小説家だよ。その小説家のぼくが、なんで「みどり」ちゃんとか、早乙女なんとかいう人の名前を覚えなければならないんだろうか」
「彼はこう言いました。「それもそうだね、でもついでにいっておくね、あの小太りの警官役の人の名前なんだけど」
「……」
「伊集院光っていうんだよ、と」

話はここで終わる。スタジオが一瞬沈黙に包まれる。伊集院はぐっと胸にこみあげるものがあって、うまくしゃべれない。そのことが、その沈黙から伝わってくる。

” — M17星雲の光と影

私は何気ない、ふつうのところで、でもしっかりがんばっている人間がいる。それに気づいたとき、「ああ、書いてみようかな」という気になるんです。そして、その「がんばり」を再現するためには、「がんばっている人がいる」ではまるで伝わらない。その時、自分の受けとめたものを自分なりのことばで再現しなければならない。そういう時に文章の起動装置が動き出すんです。

単なるラジオ番組の再現に見えますが、この文章には自分なりの思いをこめたので、たくさんの方のコメントをいただいたことをほんとうにうれしく思います。

” — M17星雲の光と影

Nov 08

“ 64歳と、近い年齢で自殺した伊丹十三氏を連想した方も多いでしょう。お二人のプロファイリングは、素人目にも大分違うと思いますが、我が国の文化の中での立ち振る舞いには共振性があったと言って間違い無いでしょう。ワタシは、あれだけボンボンで美しく、体躯にも知性にも恵まれ、若い頃からしっかりとお洒落でエッジで、早熟でダンディで軽みがあって、穏やかな笑顔を持ち、多趣味を極め、ガツガツせず、品のあるスタイリッシュな人生を送った人物が、60代と言わず70代と言わず、現在のこの国で、「やる事が無くなった」といって死んでしまう事を、一体誰がどうやったら止められるのか、まったく解りません。あのとき、同じ空を見て、美しいと言った二人の、心と心が、いまは、もう通わない。あの、素晴らしい愛をもう一度。あの、素晴らしい愛をもう一度。という痛切な「フォークのメッセージ」は、現在「ずっとそばにいるよ」「一生守ってみせる」「声を聞かないと不安になる」に変質してしまいました。我々は、アンチエイジングなどしている場合ではない。大人という、非常に贅沢な演技が全うでき、老人という、非常に贅沢な本質が全うできる社会を取り戻すために、全セクション総力を上げて闘って行かねばならないのです。故人の死をデカダンにしてはいけない。心よりご冥福をお祈り申し上げます。” — PELISSE-速報閲覧ページ

Oct 26

ファンの論調でよくあるのが「ミヤジは元々こんなんだよ、昔なんかもっとひどかった」だけど、それはファンなら周知のことだがイチリスナーには分かり得ない。

また、エレカシを知らないというアンチに「ゆとり」などといった常套句で返すのは同じファンとして恥ずかしい。

エレカシを知らないことは愚かなことではないし、エレカシの音楽を理解できなくてもそれはそれでよい。

コアなファンなら特にこう思うだろうが、エレカシは大体に「一般ウケする音楽をやるバンドではない」し、「白珠は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 吾し知られば 知らずともよし」のバンドなのである。

アンチはアンチで「聴いたことない」「エレカシって誰?」「三流アーティストのクセに」「三流大学出のDQN」などと言う。

知らなければyoutubeででも見れば良い。わざわざ書いて、で、どうしたいの?という無意味なレベル。

「宣伝の為にわざと話題作りでキレてみせた」や「ラジオ局との企画」といったものでもない。

ファンが言う通り、昔からこういう感じだから。

「売れてないのに威張るな」というコメントもあるが、これは論外。

売り上げが全てであるなら、レンタルショップのトップ10に齧りついていれば良い。

売り上げは大事だが、日本の音楽シーンを作っているのは、そこに置いてある音楽だけではない。

蛙が大海を知らずヒットチャートのみしか受けつけないのであれば、聴かなくて良い。

大量の新人が毎年デビューし、名曲を書いたバンドが解散する中で、爆発的ヒットがないにしろこの入れ替わりの激しい音楽シーンで、20年以上活動出来るのはそれなりの音楽性、評価、ファンが居るからである。

ロッキンオンの渋谷氏に「サザン以来のバンド」と高評価を受け、デビュー時のスピッツ草野に「正座して聴いてます」と言わしめ、いきものがかりが熱くエレカシを語り、秦基博がファンであるとエレカシを挙げテレビで弾き語りして見せ、その他にも芸能人や漫画家や他にもエレカシを高く評価している人間が少なからず居る。

聴いてみて好き嫌いは勝手だが、売り上げやこの度の件だけで三流と言うのは愚の骨頂である。

一度レコード会社から契約を切られ、それでもなお小さいライブハウスで地道に活動し、再度メジャーへ返り咲き、今もこうして活動しているのには、信念や情熱や労力や多くの協力、ファンの力がある。

「相手が女DJだからキレられたんだよ、自分より強い相手だったらへこへこするだろ、こういう輩は」というのも、違う。

ソニーのオーディションでレコード会社の審査員をしていた人に「まるで不良みたいな感じですが、現役ですか?」というフザけた質問をされてここでもキレている。

当たり前だ。歌を歌いにきたのに茶化しているわけだから。

デビューしたくてたまらない、というだけのバンドなら笑って済ますだろう。

しかし、宮本氏は音楽に対して常に真剣に取り組んでいる。のに、こんなフザけたことを言われるのが我慢ならなかったのだ。

ダウンタウンに小突かれても怒らないのは、それが悪意あるものでなく、自分達のためにやってくれているということを認識しているからである。

この度のDJの対応にはそれが感じられなかったのだろう。

宮本氏が変人なのは確かに有名だが、それと同じくらい、音楽に対しての真摯な姿勢が有名だから胸打たれる、ファンがつく、同業者でさえ、認める。

” — I am a fish, You are the water.

Oct 14

私の同居人がきょう死んでしまいました。

去年の5月にうちにきて、まだ1年半しか、なのに、死んでしまいました。

うっすら目をあけたままで、寝てるんだと思って、でも冷たくて、信じられなかった。まだ砂もごはんもワタもいっぱい残ってて、あいつのために使うはずだったのに、行き場がなくなってしまいました。体はまだやわらかくて、寝る前に様子をみるべきだったんだ。もっと一緒にいられると思っていたのに。私が殺してしまったのか。私の、100分の1以下の、小さいねずみのくせに、かわりに、私が死んでもいいと本気で思ってしまったけど、死んでからじゃもう、そんなことできないし、寿命だって2年くらいで、寒くなってきたから、今年の冬は気をつけようと思ってた矢先だったのに、冬眠じゃなくて、本当に死体になってしまったのを確認しても、信じられなくて、死ぬのはいいんだけど、勝手にすればいいんだけど、でも二人で暮らしてたのに、なんで死ぬのかな。やっぱ私が殺したことになるのかな。そしたら、一緒に暮らしたのが私じゃなかったら、もっと長生きできたのかな。あいつ私のこと好きだったのかな。

あー、誰かに言わないと、と思って、でも誰にも言う気になれなかった。だからって日記を書いてる場合なのか?しかもこんな暗い内容で、と我ながら情けないんだけど、ほかにどうしようもなくて、今日夢をみたんだよ。なぜか松尾スズキとペットショップで、お互いの猫を連れて、談笑してたら、うちのみんちゃんが具合が悪くなって、松尾スズキをそこそこに、抱いてすぐに帰ったんだけど。しおらしく抱きついて、それを抱いて泣きながら自転車をこいで、起きたらみんちゃんを抱いたままの格好で、怖くなって母ちゃんにメールしたら元気でホッとしてたんだけど、何だよお前のほうかよ、って、じゃあ、ねずみの姿で出てこいよ、誤解したよ、って、言ってももう遅くて、私も、こんな小さいねずみ1匹死んでも泣かないと思ってた。大事だけど、死んでも泣かんだろうなあとか言ってて、でも死んだよ。本当に死ぬと思っていなかったんだろうか。そりゃ死ぬよ。

アパートの裏に埋めた。

なぜ埋めねばならないのかわからなかったけど、今までいっぱいそうしてきたように、同じようにしてるのに、なんで埋めんとかんのかわからんかった。だって目をさますかもしれないじゃん。死んだけど。もうすぐ起きそうなんだもん。起きたとき土の中だったらまた死ぬよ。自分でもたぶん、混乱してるんだろうなあとはわかるけど、それでもなぜ埋めねばならんのかがやっぱりわからないまま、無理矢理埋めた、だから土をかぶせるときちゃんと見れなかった。

大事なものが死んだとき、日記なんかには絶対書かないし書けないだろうと思ってた。そんなふうにできる程度のものは持ってないと思ってた。でもやってしまっとる。それは結局たかがねずみ一匹だからなのかもしれないし、たとえばほかの家族が死んでもそうしちゃうのかもしれない。そう思ったら情けなくなった。そもそもこれは、こういうことは絶対に書かないと決めてたのに、なにを感傷的になってやってしまっているのだと情けなくなった。でも、あえて今日はこの文をこのまま登録する。もしかしたら後日やっぱりいやになって消すかもしれない。今まで、打つだけ打って、アップしなかった文章なんて腐るほどあった。でも、あいつが死んだことを残すためにも、埋めた直後の感情をそのまま残して、いつか、思い出したときに、気持ちが変わっていないことをたしかめるために、残しておこうと思います。

今日は、読んだ人を嫌な気持ちにさせてしまうと思います。ごめんなさい。でも今日は、あいつのこと以上に、ごめんなさいと思えないのです。ろくに、名前も呼んでやれなかった、呼んでもしかたないと思ってたけど、からっぽのケージはどうしたらいいんだ。新しい誰かを呼んでくる気になれないけど、片付ける気にも当分なれない。なんで、もういないんだろう。どこへいってしまったのか。なんで死んじゃうんだろう。あーでも、短い間だったけど、一緒にいてくれてよかった。とか、今はそんな、きれいにまとめることはできないんです。なんでなんでって、何度も思います。

” — 皆様と共に走るユ典

Oct 13

『異国の丘と本当の気持ち』

宗清裕之


ロンドンの中心からほんの少し北寄り、地下鉄のチョーク・ファーム駅の近くに、プリム・ローズヒルという公園があります。緑の芝生がいっぱいに拡がった広大な敷地の中央が丘状になっていて、その丘の上に立つとロンドンの町並みが一望の下に見渡せるという、素晴らしい場所です。7月の半ばのある日、僕達は近くのスタジオを抜け出して、その丘の上にいました。夜も9時をまわっているというのに、まだ空はほの明るくて、西の方を見れば見事な夕焼けが流れ雲を染めています。昼間の強烈な暑さは嘘のように、冷たく澄んだ空気があたりを包む、典型的な夏のロンドンの夕べ。突然、空の低いところを大きなジェット機が飛んで行くのが間近に見えました。あと一週間もすれば、日本へ帰るんだなぁ…。イギリスで過ごしたレコーディング生活も終わりに近付いた、ある日のひとコマ。その時、メンバーの胸に去来したものは恐らく、満ち足りた充足感と少しばかりの虚脱感のようなものだった、そんな気がします。


FOUR SEASONSはザ・イエローモンキーにとって、今までで最も精神的に解放された状態で制作されたアルバムです。例えば木立の緑の美しさにただ訳もなく感動したり、空の青さに何故か胸がときめいたり、部屋の窓から眺める雨模様にメランコリックな気分にさせられたり、そんなまる裸で繊細な感情が、レコーディング期間中メンバーの気持ちを支配していました。それは、単純にイギリスという異国の地にいたからとかそんな短絡的な理由からだけではなくて、BUNCHED BIRTH(ザ・イエローモンキーのインディーズ・デビュー盤)以来多くの経験と学習を積み、試行錯誤も重ねたうえで、バンドがあらためて辿りついた必然の境地だったような気がしてなりません。心が音楽を生む、なんて口にしてしまえば安っぽくなってしまいそうな言いまわしですが、でも本当にそれが、FOUR SEASONSの根幹にあるものなのです。だからこのアルバムは、音楽の純粋な感動と、迷いのない強力な創作衝動に満ち溢れています。そして、この作品を創ったことを通して彼らが得たものが、これからのザ・イエローモンキーをもっと素晴らしいステップへと導いてくれると僕は確信
しています。何よりも今日、このFOR SEASON TOURのステージを見た皆さんこそが、自らの目でそのことを確認していただけたのではないでしょうか?


FOUR SEASONSのCDジャケットの表紙をめくった最初のページにうつる、あのプリム・ローズヒルの写真。それを見ながら僕はほのかな感傷にひたりつつも、新たな年へむけてのザ・イエローモンキーのさらに大きな姿を思い描いている今日この頃です。

Oct 07

幕を下ろすときは必ず来る<030514>

・・・と、いうセリフが「透明人間の蒸気」のなかにあったなあ。

芝居だライブだとそれだけを追いかけるために旅をする「遠征」という行為を最初にしてからもう10年ちかくなりますが、東京は朝飯前、九州も行ったし東北も行った、静岡だ長野だ名古屋だと近場もたくさん行かせていただきました。
実は海外だって行った。
でもそれは芝居のためじゃなくってライブのためでもなくって。
バスケを見るために。

行ったところがユタにあるソルトレイクという街でもーほんとなんにもない!
きれいだけれど2時間もぐるっと回ったらあとは本当になんにもない!
モルモン教の教会を見に行ったら日本人留学生に勧誘されるし
アイスクリームバーでアイスを一番小さいサイズで頼んだのにバケツみたいなのに入ってくるし(食えるか!)
1人だからどこでご飯食べていいかもわかんないで結局マクドなんか行ってるし
3日間居たけど食事の中で一番旨かったのがデルタセンターで食べたホットドッグだったっていう
なんともみすぼらしい旅だったんだけどでもすっごく良い旅でした。
不思議なもので「JALで行く自然派アメリカ!アメリカ中部の旅5日間♪」なんていうのより
あまりにやることがなくって近くにある貿易ビルみたいな建物に潜り込んで
床に座ってぼそぼそと開場までミステリを読んで時間を潰した記憶の方がイイもんだったりするんだ。

そうまでしてアメリカの片田舎まで出かけたのは私がジョン・ストックトンという選手が好きだったからで
どうしてもどうしても彼のプレイを生で見ておきたいという衝動が抑えられなかったからだ
小さい身長でコートをかけずり回り芸術的なパスを繰り出し
ものすごくクールな感じなのに実はすごく負けず嫌いで
マローンとのピック&ロールのコンビネーションは無敵で
NBAのオールタイムアシスト&スティールリーダーで
審判の見ていないところでこっそりシャツを引っ張ったりする姑息さもあって
NBA1ダーティーなプレイヤーとロドマンに罵られたこともあって
19年間で欠場した試合がわずか22試合という鉄人ぶりで
余計なことは喋らない、自分のことを大きく言わない、不必要に注目を浴びるのがイヤ、
言い訳が大嫌い。
プロで、
プロで、
プロだった。
彼は本当にプロフェッショナルという言葉が似合う人で、だから私は彼が大好きでした。

幕を下ろすときは必ず来る。
彼はどこかの神様みたいに二度も三度も宣言を撤回する人ではないからかれが「辞める」といったら本当に辞めるんだろう。
ジャズの12番は永久欠番になるのかな。
セレモニーなんか嫌がりそう。
マローンはどうするのかなあ。
・・・・・。
寂しいとかつらいとか私のNBAは終わったとか戻ってきてーとかじゃなくて
貴方は私のヒーローでしたよ!と言って大きく手を振ることが今私の一番伝えたいことなのかもしれません。

長い日記になりますが<030810>

ミッシェル・ガン・エレファントというバンドがいる。知っている人は知っているし好きな人にはとても大切な名前だが、いわゆる世間一般からみれば「誰それ」「何それ」の類なのかもしれない。91年結成、96年メジャーデビュー。テレビで曲の尺を短くされることなどを嫌ってテレビの音楽番組には殆ど出演してこなかった。だから、余計知っている人、好きな人とまったく知らない人の温度差が激しいのかもしれない。今時信じられないくらい硬派で、スタイリッシュなロックを貫く彼らは、ドームや大きなホールクラスでのライブを嫌って、どんなに売れてもオールスタンディングの、小さい会場で一体となるライブスタイルを崩そうとはしなかった。メンバーは4人。4ピースの、シンプルなバンドだ。シンプルで、そしてとにかく、格好いいバンドだった。それがミッシェル・ガン・エレファントだった。
私はイエローモンキーが好きで、だからこそミッシェルの格好良さにはいつも嫉妬していた。イエローモンキーは、やはりどこか時代とそぐわないような垢抜けきれない部分があって、勿論そこが素晴らしい彼らの魅力ではあったけれど、しかしミッシェルのあまりにスタイルを貫いた格好良さはどうにも気になってしょうがなかった。妬けたし、羨ましかった。今年の春先にタトゥーというロシアの娘っ子が歌番組でドタキャンをくらわし、慌てふためく番組スタッフに懇願され、事も無げに予定外の曲をぶっつけ本番でさらりと聞かせて格好良く立ち去る、なんていうドラマのような出来事も、あまりにミッシェルで、そして格好良すぎて、私は凄いなあと思うと同時にやはりどうにも妬けてしょうがなかった。

ミッシェルは先月末に突然解散を発表した。ファンにとっては衝撃で、現在発表されているツアーの最後の日程、10月11日がラストでそれ以降解散ライブというようなことは一切やらないという。それもまたあまりに格好いいミッシェルのスタイルではあるが、一分一秒でも彼らの音楽と一緒にいたいと思うファンにとっては、ある意味残酷な仕打ちだったろう。だからこそファンには、残された時間はものすごく大切だし、例え生でなくても、彼らの音楽に触れることの出来る機会は逃したくないものだったに違いない。しかしもともとテレビに出ない彼らのことだから、解散発表後決定しているテレビへの出演は2回のみ、そして歌番組はそのうち1度きりしかなかった。それが先週の金曜日の、ミュージックステーションだったわけだ。

関西圏、つまり、ABC放送では、この日のミュージックステーションを、急遽阪神戦の中継に差し替えた。ABC放送でその判断を下した人が、ミッシェルのことを知っていたのか、知っていてもどうでもいいと思ったのか、それはわからない。当然テレビは視聴率が取れてナンボだし、企業の論理として多くの人が期待している方を選択するというのは、正しい決断なのだろう。だがそれが正しい判断なのだとしたら、わたしは間違った人間で構わない。正しい側になぞ、金輪際つきたくない。阪神は18年ぶりに優勝への道をひた走っている。ファンにとっては至福の時だろう。18年の重み。経済効果。関西経済界の活性化。どれもこれも正しい、太刀打ち出来ない論理ばかりだ。だから再放送があることも知らず(知ることが出来ず)ミッシェルの最後のテレビ出演を見逃した彼らのファンは、泣き寝入りするしかないのだろう。それがどうしたと、そんないちバンドの解散ごとき知ったことではないと、踏みつけにされるしかないのだろう。

だがすこしだけ考えてみて欲しい。阪神の優勝は確かに嬉しい出来事だ。18年ぶりの優勝だから存分に楽しみたいというひと、もう次は、いつあるのかわからないのだから、この機会を逃したくないというひと、さまざまだろうと思う。でもまだ可能性はある。どんな可能性だってある。来年もまた勝つかもしれない。もしかしたら次は5年後かもしれない。また18年そんなことはないのかもしれない。でも「いつか」は残っている。「いつか」と思い続けることが出来る。ミッシェル・ガン・エレファントとそのファンには「いつか」は無い。時間は限られ、そしてどんどん終わりの時は近づいてくる。10月11日で、彼らの世界は終わる。そしてもう二度と、還ってこない。

私は野球が嫌いだが、それは野球というスポーツが嫌いなのでも、それを応援する人が嫌いなのでもない。私が嫌いなのは、日本のプロ野球全体にまとわりつく「なにをやっても構わない」という傲慢さだ。彼らが正しく、彼らが強く、だから他は踏みにじられてもしょうがないという風潮だ。ダウンタウンの松本人志はその昔、自身の番組が急遽野球中継に差し替えられたことに憤り、その番組自体がうち切りになったことがあったが、彼もその傲慢さに耐えきれなかったのだろうと思う。お笑いよりも野球が上、ドラマの最終回よりも野球が上。それがどれだけ少数派の楽しみを奪うことになっても知ったことではないという強者の論理に、私は反発しないではいられない。それが間違っていても構わない。私はそれを「おかしい」と思うしそれに慣れたりなんて絶対したくない。その論理の何が悪いと言う人は、ミッシェルの最後のテレビ出演を見ることが出来なくて、泣いた多くの人を目の前にしても同じことが言えるのだろうか。


こういうことがあるたびに、私は野球をまた、嫌いになる。

さよならだけが人生だ<040131>

近鉄劇場・小劇場は1985年10月、映画館のあった旧近鉄開館を改装してオープンした。こけら落としの作品は、近鉄劇場がバラエティショー「ザ・シアター」。そして近鉄小劇場が劇団第七病棟「ビニールの城」である。その後約18年にわたる歴史を経て、この1月、様々な思い出が作られたこの二つの劇場が関西から姿を消す。


昨年10月まで近鉄劇場プロデューサーを務めていた松原利巳さんは、閉鎖に関する新聞記事で「関西の才能が東京へ流出していくのを何とかして止めたい、それには東京と同じように小劇場演劇が育つ劇場環境を整備する必要があった」と語っている。目論見通り、その半年前にオープンした扇町ミュージアムスクエアも含めたこの三館は、関西における「小劇場すごろく」の中心となり、いま現在テレビや舞台で活躍している多くの演劇人が、この舞台を踏んで育っていった。それだけではなく、近鉄小劇場では関東の劇団が続々と関西進出を果たし、「いま、一番面白いもの」に触れることが出来る機会を長年にわたって提供し続けてくれていた。形として残ることはなくても、その事が与えてくれた恩恵は、あまりにも大きい。


開館の1985年を見るだけでも、第七病棟、青い鳥、劇団3OO、南河内万歳一座など小劇場にはバラエティあふれる演目が揃っている。近鉄劇場では、その年の12月遊眠社が早くも登場。解散公演である「ゼンダ城の虜」まで、いや解散後もNODAMAP大阪公演の拠点と言えば近鉄劇場だった。86年2月にはいまをときめく新感線が「星の忍者」で小劇場初進出。翌3月には第三舞台が「デジャ・ヴュ86」で関西初進出を果たす。初期の頃は、コンサートやトークショー、映画上映など、様々な用途で使われてきたが、88年頃から近鉄では劇団四季をはじめとするミュージカルや、商業演劇系の作品、対して小劇場では、全国の新進気鋭の作り手達が顔を見せるというカラーが明確になっていく。遊機械全自動シアター、花組芝居、プロジェクトナビ、Cカンパニープロデュース、東京乾電池、自転車キンクリート、東京サンシャインボーイズ等々等々、数え上げればキリがない。あそこに行けば、面白いものが見られる、という思いは、私の中にも殆ど信仰のように存在していた。


劇場には神が宿る、とよく言われる。近鉄劇場も例外ではなくて、写真を撮れば、映るんだよという話が、まことしやかに囁かれてもいる。人が多く集まり、そしてあれだけの「濃い」世界が生まれては消えていく場所だから、そういうこともあるのかもしれない。近鉄劇場・小劇場が最後を迎える昨年から今年にかけて、役者さん達がその「神様」にカーテンコールでありがとうとお礼を言う姿が、何度も見られた。私は、普段はそういった目に見えないものを信じないけれど、芝居には「いま、演劇の神様が降りてきてるにちがいない」と思わせるような一瞬は確かにあって、だからその「ありがとう」を聞くたび、なんとも言えない気持ちになったものだが、ただ一つ思うのは、この二つの劇場に宿った神さまは、きっと芝居を観るのがすごく好きな神さまだったんじゃないかという思いだ。思いというより妄想、と言った方がいいかもしれない。一年前OMSが閉館したとき、私はこんなにも創り手に愛された芝居小屋があったろうかと何度も思った。それはOMSが貸し館業としてではなく、ある種制作側であったということもあるのだろうが、OMSに居た神さまは、きっと、芝居を作るのがお好きだったんだろうな、とクロージングイベントに参加しながら思ったものだ。だとしたら、きっと近鉄の二つの劇場に居る神さまは、芝居を観るのがお好きだったに違いない。なぜならこんなにも観客に愛された劇場を、私は他に知らないからだ。


1988年9月10日。私は初めて、近鉄小劇場に足を踏み入れた。演目は第三舞台「天使は瞳を閉じて」。私はその年の春から友人に引っ張られ演劇部に入部していた。前年からその友人との関係で公演準備の手伝いなどをしていたのだが、その年の春の卒業公演で主力の三年生が抜け人数が激減してしまうことを理由に友人から説得されたのだった。小学校の時からずっと続けていたバスケットを辞めたこともあって、暇を持て余していた私はその説得に応じることにした。OKした理由の中には、その年の春に見せてもらった三年生の卒業公演が異様に面白かったということもあった。その時その三年生が卒業公演に選んだのは第三舞台「ハッシャ・バイ」である。舞台の最後に行われる群唱がとにかく印象的で、なんだか自分でもやってみたいと思わせられるものだったのだ。


演劇部に入ってしばらくしてから、顧問の先生から「第三舞台の公演があるがみんなで見に行かないか」というお誘いがかかった。チケットは私がとってあげるからと。正直チケット代を自分で出せるあてもなく最初は迷ったが、演劇部員の殆どみんなが行くということもあって親に頼んでチケット代を出してもらうことにした。夏から秋にかけては演劇コンクールの準備でてんてこ舞いだったので、公演日当日になるまで、そんなに楽しみで楽しみでしょうがない、という思いで待った覚えはない。ああ、そういえば今日行くんだったね、そんな感じだった。しかしさすがに当日は、土曜日の授業を終えたあとみんなで街に出かけていくということもあって、ボルテージはどんどんあがっていっていたと思う。谷町九丁目の駅から何をどうしたものか方向がわからなくなり、高校生十数人がうろうろとチケット片手に迷っている姿はさぞかし不思議なものだったのではないかと思う。


おかしなもので、もう15年も前のことだというのに、近鉄小劇場に降りる半地下の階段の前に立ち、その入り口を見下ろした光景がまだ頭の中に残っている。階段の途中で若手劇団と思しき人達がビラをその階段を下りてくる人達に一枚一枚手渡ししていた光景も思い出す。階段を下り、劇場に入るとロビーに鴻上さんが立っていて、一気に現実味が襲ってきた。先生がまとめて買ってくれたチケットは、センターブロックG列と、下手側最前C列に分かれていた。私は、C列のチケットを取った。


あの時、私の横に座った友人は、誰だったのだろう。舞台のことはあんなにも鮮明に覚えているのに、そんなことが思い出せない。興奮を顔に出すまいとつとめながら、開演までの時間を待っていると、それまでよりも少し大きな音で音楽が流れ出した。そして、暗転。


その自分の伸ばした手の先までも見えないような暗転のあと、唐突に光が射し込んだ。見上げると舞台の上、客席とのぎりぎり境に10人の男女が立っていた。一斉に、群唱が始まる。台詞は「ハッシャバイ」の、あのラストの群唱。
その瞬間、私は恋に落ちた。
完璧な群唱、完璧な立ち姿、そして繰り広げられる夢のように楽しくて、切なくて、哀しい物語の顛末。そこに役者が生きて、動いているということの、問答無用の力。夢のようだと思った。いや、違う。そんなことを考える余裕はなかった。ただ受け取るだけで精一杯だった。見終わったあと自分が何を考えたのか、友人達とどんな話をしたのか、まったく記憶にない。ただ、劇場を出て、また目の前の階段を上がるときにこう思った。よし、よし、よし。何が「良し」なんだか自分でもわからないが、ただ背筋を伸ばして歩け、前を見ろと背中を押されている気がした。見上げた階段の先に見えた夜空も、また私の記憶の中で新しい。

それが、私と近鉄小劇場との出会いである。
・・・思えば、あの時に、最後に差し出された手と見えない握手をしたときに、私の魂のかけらはこの劇場に取られてしまったのかもしれなかった。近鉄小劇場は、贔屓目にみても、それほど見やすい劇場とは言えない。傾斜が緩すぎるきらいがあるし、何より椅子の堅さ、座りにくさは多くの人が指摘していた。だが、私は実はあの椅子を堅い、座りにくいと思ったことがない。3時間を越える芝居でも、まったく平気で座っていることができる。お尻が痛くなったことも全くない。あの劇場の椅子に座って、舞台を観ていると、面白いほど集中できた。まるで、自分の部屋にいるかのように。


私は急速に演劇に傾倒した。自分がやる方ではなく、見る方に。第三舞台を見たとき強烈に心に感じたのは、「これこそがプロだ」ということ。この人達こそがプロで、舞台の上に立つのに相応しい人だ。自分はそうじゃない、そう思った。だからどんどん見ることにしたのだ。とは言っても当時はまだ高校生だったから、お金をかけられるようになったのは大学生になってからだ。初めて新感線を見たのは近鉄小劇場「アトミック番外地」。音のでかさに舌を噛むかと思った。つか作品の熱気と狂気に魅惑させられたりあまりの熱にアテられたりした。三谷幸喜との出会いも近鉄小劇場。こんな作家がいるなんて!と舌を巻いた。自転車キンクリートの、ハイレベルで安定した作品に毎回楽しませてもらったし、第三舞台や遊眠社の作品がかかるときは家中総力挙げてチケット取りに奔走した。そしていつどんなときでも、近鉄劇場・小劇場で芝居を見終わったあとは、松原さんの笑顔が見送ってくれた。最初の頃はそれが誰だかわからなかったけれど、そういうものは不思議と自然にわかるようになるもので、絵に描いたようなロマンスグレーの松原さんをお見かけすることは、芝居を観る際のわたしの一つの楽しみでもあった。


98年から2年間、転勤で東京にいたために、この二つの劇場から遠ざかった。大阪に帰ってきて5月、近鉄劇場で「カノン」を見るために上本町に出かけると、以前地下のコンコースにあった近鉄プレイガイドがなくなっていた。そこは両劇場でかかる芝居のもっともいいチケットがあることで知られていて(第三舞台については、その窓口で買えばオリジナルチケットがもらえた)、何度もその前で徹夜をした私としては、なんとも心に穴があいたような気持ちになったものだ。その時近鉄バファローズのFC窓口だったそこは、それに馴染む間もなくワッフル屋に様変わりした。時は変わる。それは上本町の景色だけではなくて、この二つの劇場も例外でなかった。


2002年の6月に近鉄劇場・小劇場が2004年1月をもって閉館するというニュースが流れたとき、いろいろなメディアで、いろいろな人が、いろいろなことを言った。だが私の記憶に鮮明に残っているのは、閉館に対して署名運動を行うべく立ち上がったある方が、とある掲示板に書き込んだこの言葉だけだ。
「私にとってはこの二つの劇場はハードではなく、ソフトなのです」と。
劇場、という建物は芝居においてハードでしかない。その中で行われる芝居そのもの、ソフトこそが肝要だしそれによって観客の喜怒哀楽は左右される。近鉄の二つの劇場が無くなっても、作り手がいなくなるわけではない、芝居がこの世から消えて無くなるわけではない、ソフトの消失こそ我々は嘆くべきかもしれないが、劇場というハードが消失することで絶望することはない。その意見はわかる、そして私もまったくもってその通りだと思う。だが、彼女にとっては、そして私にとっても、あの劇場はソフトなのだ。あの劇場に出かけていくということそのものが、もうすでに一つの喜びなのだ。あの劇場は特別だった。私にとって特別だった。私はあの椅子に座って色んなことを学んだ。あの椅子に座って何度も劇的な体験をした。人生の半分の時間の喜びを、あの劇場と一緒に過ごした。31段の階段を下りて何度も何度もあの扉をくぐった。何度も何度もあのなだらかなスロープを昇った。目の前に広がる鮮やかな森のような近鉄劇場の緑の椅子も、ひっそりと静かに漂う海のような小劇場の青い椅子も、オレンジの絨毯、ロビーの自動販売機、無造作に置かれたチラシの数々、終演後観客を見送る松原さんの笑顔、そのすべてが私にとっては何よりも失いたくないものだった。私の魂のかけらだったのだ、そのすべてが。


近鉄劇場跡地の正式な再開発プランは、まだ発表されてはいない。閉鎖時のニュースでは、商業施設とも、マンション建設とも書かれている。どちらになっても、私にとっての上本町はすっかり変わってしまうだろう。今、近鉄劇場の白い壁には、その真裏に新しく建設されるマンションの宣伝がべったりと貼られている。駅から徒歩1分。通勤至便。市内有数の文教エリア。そんな謳い文句が、また舞い踊るのかもしれない。そこから見える新しい上本町の風景を、私は見たいとは思わないけれど。


劇場の前に立ち建物を見上げて思う。いつの日か必ず来る、ここが取り壊されてしまう日のことを。あの絨毯、緩やかなスロープ、海のような青い椅子、森のような緑の椅子。楽屋の壁に書かれているという、この劇場へのさまざまなメッセージも、あの時確かに観た物語、確かに感じた熱、役者の息づかいも、そのすべてが取り壊され、瓦礫の中に消える。
この劇場に確かにいた神とともに。

私達の心に刻まれた、甘美な舞台の記憶のほかに、残るものは何もない。